逃げる

 私は今、生まれ故郷から300キロほど離れた

所に住んでいる。海に面した土地から山をひと

跨ぎし、同じような、いわゆる海あり県に嫁い

できた。今からおよそ30年前。もうそれは「逃

げてきた」と形容してよい。何故なら、母親と

の関係がしんどくて「人生がダメ」になるとい

う危機感を覚えたからだ。

 私の覚えている2番目に古い記憶は幼稚園に

初めて行った日のことだ。1番目は保育園で廊

下で転んで鼻血を出して教室の片隅で寝ていた

とき。給食でコッペパンが出たのに食べられな

かった日だ。

 その日、母とふたりで登園した。年中さんだ

ったと思う。もうすぐそこで園の入り口だとい

う時、急に「じゃあ」とひとりにされてしまっ

た。私は「え⁈」という驚きで何も言えず、そ

れでも後ろを振り返らずどんどん帰っていく母

を見て、すごすごと中に入っていった。「なん

で?」。私の脳内では、母と2人で中に入って

先生に引き渡されてからサヨナラするシナリオ

があったのだろう。それが思いがけない場所で

放り出されてしまい、その記憶が鮮明に残って

しまったんだと思う。

 ストライキでバスが動かなかった日、幼稚園

児の私は徒歩でひとりで登園した。定かではな

いが、1時間半くらいは歩いたのではないだろ

うか?45年以上前、まだコンビニもなく、途

中、トイレに行きたくなったけれども誰に頼る

こともできずうんちが出てしまった。園に着い

てからもその事を言い出せずに素知らぬ顔で座

っていたら、隣の子が先生に「くさ〜い」と言

ってくれ、母親が着替えを持ってきてくれた。

絵を描いていた時だったと記憶している。うん

ちはパンツの中で煎餅のようにぺちゃんこにな

っていたと思う。

 それからも、なんだかよく分からないことが

いくつも勃発した。軽い気持ちでやってみたい

と言ったらやらせてくれた習い事。週末、ひと

りで通わなければいけなくて後ろを振り返り振

り返りバス停からの20分ほどを歩いた。幼稚園

児のころだ。不安で仕方なかった。練習はしな

い。でも、辞めなさいとは言われない。自分か

ら辞めたいとも言えなかった。

 かと思えば、中学に入る前、大好きだった習

字を辞めることになった。その時も辞めたくな

いとは言えなかった。親の言うことは絶対で、

それに従わなければいけない気がしていた。部

活も成績が悪いことを理由に知らない間に辞め

ることになっていた。だからといってその後勉

強はしなかった。母親が階段を登ってくる音が

すると予め開いておいた教科書を読むフリをし

てやり過ごす。反抗していた。それが当時の私

には精一杯だった。

 何か思っていることを伝えるのが憚られるよ

うな空気感が家庭の中には漂っていた。食卓の

暗〜い感じが嫌で、色々と冗談を言っては雰囲

気を和らげようとしていた。そんなこんなで、

もう何気ない会話なんてものは存在しなかった

と記憶している。あったのかも知れないがそれ

以上に暗かったことが心に残っているのだ。

 高校受験で受かったのが親が良しとしない学

校で、浪人するように仕向けられたり。取り引

きして入った高校の部活も怪我すると辞めた方

がいいと勧められたり。勉強よりも運動の方が

好きだった私は進学校で運動会と球技大会、寒

稽古で本領発揮していた。そしたら、体操着を

がなくなってしまった。進学校でもそういう事

は起きるんだと思った。

 大学に入るまでは何とか親元で頑張った。一

刻も早く離れたかった。自宅で一浪した後、先

に東京に出ていた兄、姉と3人での同居生活が

始まった。その頃はまだバイトに行くことはで

きていた。地下鉄を使っての通学は耳をやられ

てしんどくなってしまい次第に学校に行かない

日が増えた。勿論、相談できる友達もいなかっ

た。

 大学在学中に約1年、留学させてもらえた時

はテニスに明け暮れた。贅沢な話しだが、自分

にはそうしていてもいい、これまでを取り返す

んだという気持ちが強かった。もちろん授業に

は欠かさず出て、体育では泳げるようにもなっ

た。それでも何か埋めきれないものが残ってい

た。帰国後、逆カルチャーショックとでもいう

のか?海外で羽目を外しすぎた反動で私のメン

タルはおかしくなった。横断歩道を渡る時に人

の目が怖い。

 大学もあと半年で卒業できるところで辞めて

しまった。学費の納入期限が過ぎてしまってい

たのだ。実家に帰り1年間はそこで生活した

が、耐えきれずに夫の実家に押しかけた。あり

がたかった。その頃には既に私は鬱だった。

 今でも忘れられないのは幼稚園児の時、乗り

過ごしたバス停まで送り届けてくれた運転手さ

んの優しさや高校で唯一心を許せた国語の先生

の笑顔だ。その人たちのことは今でもよく覚え

ている。何の偶然か夫はバス運転手だ。漢文を

教えてくれたその先生が私の名前が文中に出て

きたのを読むとき、目と目が合って微笑みあっ

た。以来、漢文を1から学んで満点を取るよう

になった。それだけでやる気になれた。

 あのとき、自分の身を守るための行動をとる

事ができて本当に良かったと思っている。3人

の子どもの親になった今、当時の母の大変さや

親心がわからないでもないが、子どもの気持ち

を置き去りにしてはいけない。子どもが何もわ

からないと思うのは大きな間違いなのだ。彼ら

は大人が忘れてしまった大切なことを教えてく

れる存在だと思う。自分の子どもたちには同じ

ことをしないようにと思えたのは母のお陰でも

あるけど。