母は10年ほど前に亡くなった。大学に入って

からというもの私の母離れは加速していた。干

渉されることが減って本当に楽だった。時たま

かかって来る電話にはそれなりに対応した。

 高校生の時、過敏性大腸症候群だった事は相

談してない。大学生の時、対人恐怖症だった事

も。鬱だったことも。ほとんど相談しなかっ

た。母を落胆させることが目に見えていたし、

相談したところでどうなるもんでもないと決め

てかかっていた。それでも、地下鉄に乗るとレ

ールの擦れる金属音で耳が辛く、学校の近くに

引っ越したいと伝えると一人暮らしを許可して

くれた。勉強のためだから動いてくれたと思った。

 子育てのアドバイスには閉口した。出来事を

話すと必ずそれについてのアドバイスを時間差

で折り返し電話して来る。手紙もくる。「よく

やってるね〜。」とは言ってもらえない。「も

ういいですよ。お母さんの言ったとおりでこん

なんですから。」と辟易していた。

 母が身体の不調を訴えだしてから半年後よう

やくガンだとわかり闘病半年で天に召された。

病院のベットでか細い息をしていると思ったら

大きく息を吸った後ぴたりと呼吸が止んだ。も

う内臓の働きが衰えていることはウロバックが

教えてくれていた。母との間には色々とあった

けど「これでいいんだ。これでよかったん

だ。」と心の中で何度も反芻した。鼻水がたら

たらと垂れてきて口の中に入るのを拭いもせず

ただ上唇を舐めて止めていた。事切れた母を足

元からただただじっと見ていた。母と特別なこ

とがしたかったわけではない。何気ない日常を

過ごしたかった。それだけでよかった。

 母が亡くなってから、母がどんな人だったの

だろうと無性に知りたくなった。生前の話しで

は、三人兄弟の真ん中っ子で長女だった彼女は

病弱な母親を助けて学校に行く前に拭き掃除を

していたそうだ。学校の夏休みの工作は作り直

されてしまったと。結婚に反対され、それでも

父と一緒になった。祝福されて結婚した妹を羨

ましがっていた。昭和20年代の話しだ。

 母は源氏物語が好きでよくラジオで源氏物語

講座を聞いていた。高校生の頃、私は落ちこぼ

れだったけど、このラジオのお陰で源氏物語

読み上げるのだけは上手かった。古文の先生に

読むよう促されるとスラスラ読むのに文法はさ

っぱり。「頭がいいのに努力しないヤツは嫌い

だ」的なことを言われた。「しょっちゅう聞か

されていれば誰でも読み上げられますよ」と内

心思っていた。

 どんな内容だったかさっぱり覚えておらず、

漫画「あさきゆめみし」を全巻買って読んだ。

河合隼雄源氏物語について書いた本も読ん

だ。母はクリスチャンで私が思春期の頃、男の

子からの電話を私に取り継がず切ってしまう人

だった。恋愛は勉強の邪魔になると思っている

ようだった。その母が光源氏という平安貴族の

恋と人生について書かれた書物に首ったけとは

どんな魅力があったのだろう。どこに惹かれた

のかはもう聞くことはできないけれどそんな話

しもできたらよかったんだろう。

 書道や華道、茶道を習い、子ども達には教育

熱心で父を一生懸命に支えていた母。ある時、

何故私はやりたくもない習い事に行かなくては

いけなかったのか考えていた。私にも母と同じ

ように3人の子どもがいる。少し違っているの

は兄、姉、私はほぼ年子で私の子供たちは3歳

ほどずつ離れていることだった。そして、私が

育った家庭は核家族だったが、嫁いだ先は3世

代が同居する6人家族であった。なんだかんだ

義家族が助けてくれた私とは違って、ワンオペ

で育児をしていたら子ども達が習い事に行って

いる間に身体を休めたかったのかもしれないと

思った。子どもを育てるようになって母の苦労

が身にしみるようにわかった。

 父はその当時にしては珍しく塾を経営してい

た。学校の偉い人が保護者が集まる会で「塾な

んて行く必要はありません。」と言ったそう

だ。死活問題だ。そんな時代だったから子ども

達は勉強ができなければいけないし、わかり易

くいい学校に通っていなくては生徒さんが来て

くれないと思ったのだろう。相当なプレッシャ

ーがあったとは思う。子どもには何の関係もな

いけれど。

 母に教えてもらったことは子どもをどうこう

しようとしてはいけない。何かしらその子には

生まれ持ったものがある。大人はそれを邪魔し

ないよう、むしろそれを応援することが大切だ

ということだった。母がしなかったこと。そし

て、親は子どもにとって初めて出会う人間だか

ら善きにつけ悪しきにつけ親の在り方って大切な

んだと思った。